寝て起きたら

はにーがえあー(京あに)見てた。仕事して帰ってきたらどうやら全部見たらしい。んむ。朝方おぼろげに晴子さんの元気な声が聞こえててちょっと鬱だったなあ。
Air(はエヴァだっけ)(AIR?)は以前もちょっと書いたけど僕の許せないタイプの物語で、どうゆう事かっつうと、語り手は語られる物語に条理をもたらさないといけないと思ってる。造物主の責務として。(そういう意味で「ハッピーエンドはお約束!」っていう森生まさみの言葉はとても好き)(一方でジョージ朝倉のハッピーエンドみたいな鬱々とした終わり方も、あれはあれで腑に落ちる、つまり単純にハッピーならいいって意味ではない)(けどうまく説明できにゃいよ)
これは多分信仰にも近い妄信なんだと思うけど、語られる空想は語られた時点で「生を受けた」、っていう感覚がある。だから、生んだものたちが舞台を去る時に無念が残されるようなやり方を許せないんだと思う。無念を魅せるために書いている、と言われても、傲慢だなあ…としか思えない。現実ならぬ「神の手」が(作者という形で)実在する舞台で、報われないものが存在するのは。どうなのか。
ただ単に不幸になる、ズンドコになる、だけなのは、形次第では受け入れるしむしろ楽しめる事もある。彼らが「受け入れている」と分かるものなら。えーと何があるかな。テクノライズとか?